2007-03-28 第166回国会 衆議院 厚生労働委員会 第8号
しかし、そういう判決の中にあっても、原告ら中国残留孤児ないし中国残留婦人を生み出す原因の一つに関与したという立場や、人道上の観点から、前記のような困難な状況にある原告ら中国残留孤児ないし中国残留婦人が自立した生活等を送ることができるよう、できる限りの配慮をすべき政治的責務を負っていると明言をしたことは重要だと思っております。新聞各紙の論調を見ても、政府の早い政治判断を迫っていると思います。
しかし、そういう判決の中にあっても、原告ら中国残留孤児ないし中国残留婦人を生み出す原因の一つに関与したという立場や、人道上の観点から、前記のような困難な状況にある原告ら中国残留孤児ないし中国残留婦人が自立した生活等を送ることができるよう、できる限りの配慮をすべき政治的責務を負っていると明言をしたことは重要だと思っております。新聞各紙の論調を見ても、政府の早い政治判断を迫っていると思います。
(平岡委員「中国残留婦人の実子の方の件」と呼ぶ)これは裁判を現在やっていますから、ちょっと今どこでとおっしゃってもすぐには申し上げかねる点もありますが、少なくとも、高裁の判決が出れば、上告するかどうか判断をしなければならぬ時期は来ると思います。
総理と私が衆議院議員に初当選をしました平成五年のその選挙のちょうど九月、十二人の中国残留婦人の方が強行帰国されまして、成田の飛行場で一夜を明かされるということがございました。私はそれ以来、微力ですけれども、日本の敗戦によって中国に置き去りにされた、あるいは中国にとどまらざるを得なかった人々への支援の充実を訴えてまいりました。
例えば、今国が約束をほごにし、そして国民に塗炭の苦しみを味わわせているという件は、戦後のBC級戦犯の方々や、またシベリアで抑留された方々、様々な方々に対していまだに、また中国の残留婦人のこともありますが、厚生省の所管のものについても、国は常に国民を裏切り、そして国民の方に愛国心を涵養しろといっても私は無理ではないかと。
また、帰国希望者につきまして、これは残留孤児の場合と婦人の場合とで少し違うわけでございますけれども、残留孤児につきましては、日本人であるかどうか、孤児であるかどうかについて国が認定する作業、調査等をやって認定をしていったわけでございますけれども、残留婦人等と言われる方々につきましては御本人の申告によったわけでございまして、帰国希望者がその残留邦人本人であるかどうかを確認をするためには、親族間でしか分
しかし、裁判が起きて、主張が起き、かつ残留邦人については、中国残留婦人、邦人については、例えば第一審の判決が厳しい結果が出たということを踏まえますと、支援策が成功したと言えるのでしょうか。それとも、まずい点があったというふうにお考えでしょうか。
では、まず中国残留孤児問題と中国残留婦人問題と、その二つについてお聞きをいたします。 中国残留婦人の問題に関して、東京地方裁判所が二月十五日、判決を出しました。この中身は、行政府や立法府である国会が真摯に受け止めなければならない問題が多く含まれております。この判決をどう受け止めていらっしゃるか、まずよろしくお願いします。
それをなくなるかどうかの瀬戸際の法案を今議論していますので、特にその過疎地の声、そしてこういうものをなくしてはならないという声をお二人に最後に挙げていただきたいと思いますし、泰阜村は満蒙開拓団にたくさん人が出て、残留孤児、残留婦人がたくさん帰ってきて、そこも受け入れているわけですよね。乏しい財政の中で一生懸命やっていらっしゃる。
○吉川春子君 中国残留孤児、残留婦人たちは自分の意思で現地で長いこと生活していたわけじゃなくて、戦争のためにやむを得ずそういう結果になったわけです。しかも、満蒙開拓団というのは国策なんですね。その結果、中国に養父母がいると。その方を介護するために戻んなきゃなんないという事態のときに、わずかなその期間の生活保護を打ち切るというのは、生活保護法の第一条にも反すると思うんです。
私も平成五年に衆議院に初当選して、すぐその年の九月に中国残留婦人の皆さん十二人の成田強行帰国という問題がありまして、そのときに竹川英幸さんから「帰り道は遠かった」という本をいただきました。北満に置き去りにされて、三十年掛けて朝鮮半島を通じて自力で日本に帰ってこられて、ようやくお父さん、お母さんと再会をされたというお話。
まあ言ってみれば一番分かりやすいことで言いましたら、残留婦人の問題、残留孤児の問題、これなどにつきましては、大体千五百人以上の方々が日本に来て大変厳しい状況で暮らしておられるということも含めまして、千五百人以上ですね、これは国家賠償請求ということで、中国残留邦人、係争中という問題があります。
このような状況の中で、生活手段を失い、中国人の妻となるなどして中国にとどまった婦人等を中国残留婦人等と言っております。それから、肉親と生き別れあるいは死別をいたしまして、中国人に引き取られ、自己の身元を知らないまま成長した者を中国残留孤児と呼んでおります。これらの人々を総称いたしまして、中国残留邦人という言い方をしているところでございます。
そういう中で、先ほど中国の建国なり国交の断絶の中で非常に困難をきわめたということでございますが、特にこの残留孤児、残留婦人等ということで少し私の考え方を申し述べます。
中国残留日本人が存在する歴史的な背景について、さらには、中国残留邦人、中国残留孤児、中国残留婦人等、こういうふうに呼び方が違う経過はどうしてか、そして、とりわけ残留孤児、残留婦人等の帰国がおくれた理由について、この点、認識をお聞かせいただきたいと思います。
この前、私、予算委員会で中国残留孤児、残留婦人の話を総理としたんですけれども、北朝鮮の拉致被害者に対して十七万円の手当を支給しているけれども、あれだけ国策で大陸に渡った人たちが非常に惨めな、七割がもう生活保護ですよ。あと国民年金二万二千円から六万幾らですね。
○松岡滿壽男君 残留孤児が今二千四百、残留婦人合わせると六千百人ですよね。家族合わせると二万人帰ってきているわけでしょう。彼らは本当に、二千四百人のうち半分が国家を相手に賠償請求をしているんですよ。今裁判しているんですよ。情けないと思わないんですかね。これ、こういう人たちは別に過大なものを要求しているわけでは全然ないですよ。これ、軍人恩給だって今、毎年六百億円減っていっているわけでしょう。
ただ、冷たい祖国から温かい祖国と中国残留孤児、残留婦人が言えるような状態に何とかしたいという熱意で申し上げておりますので、御理解をいただきたい。 終わります。
本日は、中国残留孤児、残留婦人の問題に絞って総理の御見解を問いたいというように思います。 昨日来の議論を聞いていますと、確かに大きな変わり目に来ているし、変わらなきゃいけないということは国民も分かっていると思うんです。しかし、政治に必要なことは、やはり弱者に対するぬくもりといいましょうか、優しさ、思いやりだと思うんですね。
○松岡滿壽男君 小泉首相は温かい心を持っていたということになりますように、ひとつ中国残留孤児、残留婦人の問題に対しまして適切な施策を推進していただきたい。心からお願い申し上げまして、終わります。
○松岡滿壽男君 先ほど来、シベリア抑留者の話が出ましたが、中国残留孤児、それから残留婦人の問題について御質問したいと思うんですが。 昨年の十二月二十日に中国残留孤児六百三十人が原告となりまして中国残留孤児国家賠償訴訟を提訴したわけです。
○政府参考人(河村博江君) 今は国民年金のことを申し上げたわけでございまして、もう日中国交回復以後、続々と帰ってこられまして、先ほど先生、二千人余りというあれだったんですが、残留孤児及び残留婦人という両方を足し上げますと約六千人余りの方が帰ってこられておるという状況でございます。
これは確かにいろんな見方あるにしても、中国残留孤児や中国残留婦人と同じで、戦後非常に苦労された。これも本当は平時ですよ、戦争終わっているわけですから。 それを二つに分けられるというのは私は非常に国民に対する説得力が欠けていると思うんですが、いずれにしましても、現状をそのまま移行して理事を一人減らされるということですけれども、仕事量というものが結局どうなってきているのか。
さて、他国の難民の話ばかりでしたが、今度は自国の難民といいましょうか、かつての残留孤児、残留婦人。今日は坂口大臣に、済みません、お越しいただきまして。 結局、私も実は残留孤児になり損ねた方なもんですから非常に身につまされておりまして、今、二万人近く帰ってきているんですよ、永住帰国で。それで、一時帰国が約一万近く、これはまあ向こうに帰っているわけですね。
中国残留孤児と言われる方が二千四百人、そしていわゆる中国残留婦人も、もう少し大きかった方ですね、年齢がいっていた方、その人たちが三千七百人おみえになる。そして、向こうで結婚なさって、そして御家族、お子さんなんかが一緒におみえになる、そういう人たちを合わせますと全体で一万九千八百人、今御指摘になりましたように二万人近い方がおみえになる。
○松岡滿壽男君 結局、この中国残留孤児とか残留婦人がどうして発生したかということについても国民の大半は知らないんですよね。満州国があって、そこに日ソ不可侵条約を一方的にソ連が破棄をして満州に侵入したと。もう関東軍はほとんど南に行っていなかったですから、その間、婦女子ばかりが逃げ惑う。だから、手足まといになる子供たちをまず、ある面ではかわいそうに、亡くなった人がたくさんいるわけです。何千人ですよ。
例えば平成十四年の二月二十八日時点での中国からの帰国者、永住帰国者が六千百六十八世帯、一万九千七百四十四人、このうち残留孤児が二千四百三十三世帯、八千八百八十三人と、残留婦人が三千七百三十五世帯、一万八百六十一人となっているんですね。 私自身も終戦のときに満州で、滿壽男という名前は満州の満でございますので、小学校五年ですからいわゆる残留孤児で最年長組ですよ。それから生まれたばっかりの子と。
非常に特異な存在だと思いますよ、残留孤児と残留婦人というのは。じゃ、ほかの戦争犠牲者、被害者との均衡というのは、具体的にそれじゃどれとどれとを対比して言われておられるのか、分かりやすく答えてください。
それから残留婦人、残留孤児が出た。 こういうことを歴史的に振り返ってみると、憲法自体もそれぞれ民族の血がにじむような歴史を背景にそれぞれつくり上げられてきているわけですね。やっぱり指導者としての一瞬の判断といいましょうか、これの厳しいものをポツダム宣言のポツダムの場で感じながら帰ってまいりました。
○松岡滿壽男君 今、山本先生の方から残留孤児の問題とか中国残留婦人、それからソ連抑留者の問題等、戦後処理の問題についてのお話があったわけですが、本当に熱心に取り組んでいただいておりまして、敬意を表するわけですが、私も実は満州生まれの満州育ちで、五年生のときが終戦であったわけです。ちょっと私、下になりますけれども。
○松岡滿壽男君 残留孤児とそれから残留婦人もともにそうですけれども、高齢化が進んできているので帰ってきてももう仕事するような年齢でもない。ただ、国民年金ということになると三十五万ぐらいしかもらえないわけですよ。しかも、中国では年金の掛金を納めておったけれども、それは認められないと。こっちでは追徴金を払って、満額の八十万もらうとすればしなきゃいかぬというような状況もあるようなんです。
田舎の場合は、例えば私の方の山口県は五十人ぐらい残留婦人が帰ってきているんですけれども、ボランティアだけで七百人ぐらいいるんです。だから、いろいろ声をかけ合う形がとれるんです。ところが、東京や大都会へ出てきてしまうと、完全に受け入れられない部分が出てくるとか、そういうことがあるんです。 そういう点についてもやっぱり指導されるべきじゃないでしょうか。
それからいわゆる在留邦人の悲劇が始まったんですけれども、ソ連軍が進駐してくるところで多くの邦人たちが逃げまどって、特に女子供ですね、だから、足手まといになりますから子供たちを処分するという部分があったわけでありまして、そこからいわゆる中国残留孤児と中国残留婦人。ただ、私どもは、蒋介石の、恨みに報いるに徳をもってなすという一言で百万人近くが無事日本に帰れた。